成長
「成長」という言葉をちょっと考えた。
学院の古い卒業生たちと会ったり、卒業シーズンだったり、さまざまな要因が少しずつ重なってのことだけど。
とどめは10年ほど前の教え子の個展を見たことだったりする。10代のころ、鋼鉄の蕾の固い守りの奥にほの見えていたものが、絶妙に整った居心地の良さで外界に存在していたので。
成長とは、自分が本来持っているものをリラックスさせること。
と思った。
ほどける、とける、と言ってもいい。
それには水や養分や陽光が必要だけれども、それらは外界から補給されるけれども、本質は内面に隠されている。
それを人はつい握りしめてしまう。
有ると知っていても固く握りすぎてしまったり、自らつぶそうとしてしまったり、掌の中に何も無いと思い込んでこぶしを作っていたり、単に生きることの緊張から強張っていたり……。
そういえば学生を見ていて、ほらそこ、その掌の中に……と思うことはときどきある(卓見なのではない、単なる岡目八目)。
彼ら自身がそれに気づき、手を緩め……、逆もある。何かで手が緩み、それが現れ……。
(それを時間をかけて眺めていられるのが、この商売の楽しみなわけだけど)
大人も成長する。つまり大人になっても、余分な力が入ってしまうのはなかなかやめられないということで^_^; 大人げなさを標榜する私なんかその最たるものである。
……仮にもコクゴの先生が、「成長」なんていう基本的な言葉の意味を今頃わざわざ考えて、というツッコミは受け付けない。
これは私の55歳のささやかな成長なので。
何度も自分で体験し、人のことを見ていても、辞書的な説明を知っていても、自分自身による言語化を経てはじめて実体として認識できる、という一例であります。
そして当然のことながら、「成長」の意味は一つではなく、ほかを発見する楽しみが、まだ人生には残されているのであります。