戦争を知らない子供たち
1970年、「戦争を知らない子供たち」という歌が流行った。当時私は12歳の小学六年生。
今から思えば、世間は安保闘争やベトナム戦争があり、まだ立川に米軍基地があったころ。
しかしいたってのんびり……というか、父親が次々に与えてくる本を片っ端から読み、小学校から帰るとランドセル投げるや本ばかり読んで勉強しなかったので、いまだに分数の計算ができなかったりする。
私はいとこたちの中では年下の方で、一回り上のいとこたちから文化的影響を受けた部分がわりとある。絵本や漫画のお古をもらったり、音楽を聞かされたりした。
60年代に大学生や専門学校生だったいとこたちが聴いていたのは、ピーター・ポール&マリーやボブ・ディランなど。当時プロテストソングと呼ばれた洋楽が多かったが、そろって、「ノンポリ」であった。
私は彼らに教えてもらった歌手のうちではPPMのハーモニーが好きだった。
PPMから入ってしまったお子様には、当時の日本のフォークは、声も歌詞も「甘い」感じでそれほど好きなわけではなかった。
ただ、新しいものは嫌じゃないが、流行り物には鑑定眼が厳しくなる親のいる家で育ったので、逆に流行っているものには、縁日の怪しげなお菓子のような魅力を感じてしまう面もあった。
それで、『戦争を知らない子供たち』について、ちょっと浮き浮きして、それほど深い本心でもないあの発言になったのだ。
「♪戦争を知らない子供たちさ~
私も知らないよ、この歌の主人公なんだよ」
「あら、そんなのただ戦後に生まれたってだけよ」
間髪を入れず母のガチな答えが返ってきた。
うちの母は普段ふわーっとした雰囲気で、悪く言えばぼおーっとしていて、いろんな人にあんなやさしいお母さんでいいねと言われたものだけれども、それはその通りなのだけれども、しかし、自分の考えははっきりきっちり言う人だった。
ただ^_^; 人がたくさんいるところでは、ぼーっとしているだけに出遅れてしまい、またしばしば話がそれてしまい、きっちり言語化できるのは主として家庭内だった気がする。
以下、母の発言である。
(私はというと、軽い発言に超ガチで返されたので、完全に聞き役^_^;)
「明日戦争が始まると言ったら、みんな反対するでしょうね。でも戦争はそうやって始まるんじゃないの。少しずつ、少しずつそっちの方向に動かされていくのよ。
Y叔母ちゃんは私の4歳下だけど、それだけでもう違う、もう軍国の子供なの。私はまだ、その前の時代の感覚を知っている。
そうやって少しずつ戦争の方にずれていくと、それがあたりまえだと思う人が増えていくのよ。そうしたら戦争は嫌だって言う人がおかしいということになっていく。
そうしたらね、今ああやって戦争は知らないって歌っている人たちだって、戦争をするようになるのよ
たまたまその時代にいるっていうだけで、平和の歌を歌ったり戦争をしたりするだけなのよ。
だから、戦争が嫌だったら、時代が少しずつ動くのをちゃんと見てなきゃ意味ないのよ」
高度成長期の子供である私が、戦争は怖いと心底思ったのは、原爆の記録映画よりも、『野火』よりも、母のこのガチの言葉だったかもしれない。
これは記録ではなく予言だからだ。
気づかないうちにじわじわくるもの、気づいた時には戻れなくなっているものの予言だからだ。
12歳の子供の、過去よりもずっと多い未来に、それは確実にいつか来るものであるかのように居座った。
あのときああやって歌っていた20代のおにいさんたちは、今は60代70代になっている。孫のいる人たちもいるだろう。
その孫たちも「戦争を知らない子供たち」だ。
私の一番年上のいとこは昭和21年生まれ、初めての「戦争を知らない子供」として、上の世代の喜びの中で生まれ、育った。彼女の成長の節目のたびに、新聞の一面に「戦後生まれの子」が小学校に入ったの成人したのと載ったそうだ。戦後13年目に生まれた私の世代に関しては、もう戦後どうこうは言われなくなっていた。もうあたりまえになっていたからだ。
そしてその後ずっと、戦争を知らない子供たちが生まれ続けている。
なんてことをつれづれに思う9月16日だった。
*安保法制・憲法などに関する私見はもちろんありますが、それはまた別の機会に。
追記
母は1923年(大正12年生まれ)。
1941年 真珠湾攻撃のときは18歳。
なるほど、まさしく戦争の「じわじわ」の最後の詰めが母の十代の「時代」だったのだ。
妹のY叔母は盧溝橋10歳、真珠湾14歳。たしかにこの4年の差は感覚や意識の違いをつくるかもしれない。