素敵な学校

これからの人類のために、自分の快適な生活のために、すてきな学校を考えます。

ありがとうごめんよかった

卒業式の数日前、専門課程文芸コース2年生の、卒業飲み会(?)に参加した。
このクラスはエネルギーがあって積極的なクラスだったと思う。卒業「パーティー」というより、掘りごたつの座敷での「飲み会」というのが納得できる雰囲気の学年だった


その席で、一人から言われた。
「先生のブログで、高等課程の子たちに向けた文章が…もう」
他の数人もそれに続き、彼らが読んでくれていて、深く受け止めてくれていたことを知った。


そして私は、ああ、あのとき、この子たちの顔を見ていた、と思った。
高等課程募集停止の発表の時だ。


あの日、2014年10月31日。
高等課程の授業は6限までで、急な集合を指示されて戸惑っていた10代たちを残して、私は上階へ向かった。
7・8限は専門課程1年の「児童文学」の授業だ。
そのときはまだ移転の話は伏せられて、高等課程募集停止の発表だけだったから高校生だけが集められ、専門課程の学生はその時点で何も知らなかったと思う。
いつものように座ってこちらを見ている学生たちを前に、私は自分が水槽の中に入っているような気がした。

さっきまで職員室の講師スペースにたまって、「なんで集められたんだろう」と言っていた高等課程の子たちと同じ場所にまだいるような気がした。それでいながら目に映っているのは専門1年生の顔で、何か空間のずれがあった。

授業の第一声のタイミングが来て、私は迷った。
それこそ、長い時間に思われたが一瞬のこと、だっただろう。
何の内容だったか忘れたが、ふつうに授業を始めていた。
今、この瞬間に高等課程に何が起きているかを話そうか……それが迷いだった。

でも結局、それは選ばず、何事もないかのように授業をした(いや、一言二言口の中で何か言った気はするが)。
彼らには、ちゃんとしたルートからしかるべく情報が行くだろう。
そして、この学年には高等課程から上がった学生がいなかったので、彼らに直接関係ないことをぶつけるのもどうかと思った。直接関係ない「感情」を。
そう、その時点では自分が何をどう話すのかが自分で予測できなかった。
だからやめた。


あのときの学生がこの子たちで、新たに巣立っていくのだと、映画のように顔がオーバーラップした。


その後発表された移転という激震は、彼らにも同じように起こったのだ。
でも、私は、高等課程のこと優先で考えてきた(もちろん授業じゃなくて、このごたごた周辺のことではね!)。
新入生が入ってこない高等課程、実技の環境が劣化した他コース。
そのなかで、「専門文芸」は「実害」が最も少なく、教室さえあれば何とかなるさ、だったかもしれない。
図書室の超劣化は痛手だが、それでも「自分で資料を探す」「国会図書館に行く」ことも、専門の学生なら当然のことではある。図書室で書き物をしていた学生もいるが、「場所を探す」のもスキルのうちだ。


そもそも私は前々から、専門生には言っていた。
「私は個人的に18歳成人制をとっているので、あなたたちは大人です」
高等課程のお子ちゃまたちとはちがう、と言ってきたし、実際、私自身の対応は自然に違っていたと思う。


まあ、そんなわけで、「学院の激動」の中でほとんど気を使ってあげずに来たのである。
実際彼らは大人なので、面倒見てほしいとも思っていなかったとは思う。


その彼らが、私の高等課程への「直接関係ない感情」を読んでいてくれたと、心のこもった視線を送ってくれて、うちの一人が「自分の心が……洗われた」と言ってくれて。
ありがとうごめんねよかった、と思った。


私は授業で――主に高等課程の生徒にだけれども――こう言っている。
「人に通じる文章」を優先しなくていい。
「自分にとって正確に」書こうとしなさい。
「自分のための言葉」を選びなさい。


自分にとって正確に書くということそのものがものすごくむずかしい。
しかし、「なるべく正確」に書こうとする中で、書き手は自分を深めていく。時に発見する。
そしてそうして選ばれた言葉は、誰かには通じる。


もっと多くに通じさせたい場合には、「読者を想定して」書くという別の話になるわけだけれども、それも、「自分のための言葉」が芯にあってこそのものだ。


単純な情報伝達は別として、表現としての言葉はそういうものだと思っている。


そして実は、このブログで私は専門課程の在校生を「読者として想定」していなかった。
高等課程を主題として、自分のためのものであり、漠然と古い卒業生たちのためであり、通りすがりに関心を持ってくれる誰かのためだった。
でも実は彼らが読んでいてくれて、そして私の言葉は彼らが不本意な変化を乗り越える時に、ちょっとだけ寄り添えたらしく思えた。
そして彼らが、直接の関わりの薄い高等課程の生徒のことを思い、文化学院高等課程という存在を考えてくれていたことを、遅まきながら知った。


想定していなかった身近で大事な人たちに届いていた、受け取ってくれていたことが、ほんとうに……
ありがとうごめんよかった
専門生も私の大切な学生です。
なので、今日はこの記事を書きました。