素敵な学校

これからの人類のために、自分の快適な生活のために、すてきな学校を考えます。

アウシュビッツに行った日

この三月に卒業したばかりの子が、アウシュビッツを訪れたことを、FaceBookに書いていた。

私もずいぶん前に行ったことがある、とコメントした。

その時に書いたものを掘り起こして、ここに貼っておこうと思う。

 

     ======================

 

            「コクラ」      


 一九九〇年代の始め、夏に欧州を旅行した。
 ポーランドには、オランダから列車で入った。車窓の風景の「色調」が変わった。牛の数も変わった……ように記憶している。
 今はどうだか知らないが、当時のポーランドでは、英語が通じなかった。外国語教育がロシア語だったのだ。ホテルのフロントと空港の職員は英語ができたが、それ以外では一切通じない。日本のように手を振りながら「ノー、ノー!」と英語を用いて英語ができないことをアピールするような人さえいない。文字通り、イエスもノーもわからない。しかも町や駅のポーランド語の表示はロシア文字である。アルファベットの国ならば、まだ類推できる場合もあるが、これではこちらは読めない。
 私は英語に堪能ではないが、「多少」であっても言葉が通じるありがたみがよくわかった。ここでは完全なエイリアンだ。
 ワルシャワでは町を歩き、雑貨屋で買い物をしたが、その間、意思疎通は視線と雰囲気だけである。
 ボディーランゲージなら通じるという俗説を私は信じない。こちらが当然と思っているボディランゲージが、異なる文化ではとんでもないことになることなどざらにある。英語圏で日本式の手招きをしたら、「むこうへいけ!」になってしまう、など代表的なものだ。余計なばたばたをするよりは、「雰囲気」の方がまだよいと思っているので、それでとおした。それから、日本語で話した。口調も雰囲気の一部だし、コミュニケーションをとろうとする意思の表れと受け取られるであろう。
 治安はよかったので、それでなんとかなった。
 ワルシャワは、ナチスの爆撃によって完全に破壊された後、完全に元通りに復元された町である。ヨーロッパでは、古い様式の建物が普通の居住空間に使われているなど珍しくないが、ここではその古い様式が「取り戻された」ものだという感慨もありつつ、そぞろ歩いた。
 町で見かけて、「なんだろう?」と思ったことなどは、ホテルに帰ってから聞いたりした。
 広場に、数本の柱だけが立っている何か遺跡のようなものの前で、結婚式の衣装を着た男女が礼をしているのを見た。後で聞いたところによると、その柱はワルシャワ壊滅のときに残ったもので、その記憶のために保存されているものだという。原爆ドームのような、戦争の記憶であり、そこで亡くなった人々の記憶である。ワルシャワ市民は結婚するときに、そこへ挨拶に行くのだという。

 

 ワルシャワからクラコフに向かった。英語の通じるフロントで乗るべき列車を確認した後、駅に行く。表示が例の文字だから、手元のメモとカタチを見比べて確認し、乗った。クラコフでは、ポーランド在住の日本人と落ち合うことになっており、この、物理的には開けた閉鎖空間に風穴が空くはずだ。
 食堂車に行った。日本ではもうそれ自体お目にかからなくなっているが、映画に出てくるような古風な食堂車で、奥に小さなバーのような厨房も見える。メニューも読めないし、Tea もCoffeeも通じないので、隣のテーブルの人が飲んでいるものを指して、紅茶を得ることができた。
 お茶を飲んでいると、眼鏡をかけた半白の髪の男性が、テーブルの向かいに座った。私の顔を見て……なんと言ったか忘れた。ともかくニッポンを意味すると思われる単語を発したので、紙に日本地図を書いたら、大きくうなずいて、ポーランド語らしい、私には一言もわからない言語で何か言った。ニホンカラキタノカ? 彼の雰囲気がそう言った。「I'm from Japan. 日本から来ました。」私の発声器官が英語と日本語でそう言った。ニホンカラキマシタ。私の雰囲気がそう言った。彼はまた大きくうなずいた。雰囲気だけが通じたらしい。
 彼は私をじっと見て、おや、少し目が潤んでいる、と思ったら、こう言った。
ヒロシマ、コクラ」
「ひろしま、げんばく」
 私はうなずきながら日本語で言った。彼はポーランド語の間に、また言った。
ヒロシマ、コクラ」
 広島を外国人が知っているのはわかる。とくにポーランド人は、ワルシャワ壊滅の体験があるので、広島と長崎にはある種近い感覚を持っているということも、旅行前に聞いたことがある。日本はワルシャワ爆撃をしたドイツと同じ枢軸国だったわけだが、ポーランドと直接戦ったことがないためか、敵国意識よりも、壊滅的被害の連帯感の方が強いのだと。
ヒロシマ、コクラ」
 わからない音声の合間に、彼はまた言って、さらに目を潤ませた。なぜナガサキではなくコクラなのだ。


   ◆


 小倉は明治の初期から連隊があったり軍需工場があったり、軍とは切り離せない関係があった。乃木希典森鴎外もゆかりの地である。

 そして不肖私の父も。第二次大戦末期、学徒兵として招集され、短期間の訓練を受けて、出征するまでの間のしばらくを小倉で過ごしたと言っていた。
 にわかづくりでも軍人であるし、親元からの仕送りもあったから、小遣い程度は持っている。それで町で、何かささやかなものを食べて金を払おうとしたら、亭主が受け取らないという。金はあるんだと見せても、受け取らず、こう言ったという。
「戦争に行く人からはいただきませんよ」
 すでに軍隊で教育を受けていた学徒兵は、日米の戦力の差を具体的数値で知っていた。軍都の庶民はそういうことは知らなかったろうが、出て行った兵隊達が帰ってこないことは、実感として知っていたのだろう。

 小倉はそういう軍の町だ。また、それだからこそ、広島の次の原子爆弾投下の予定地であった。当時は目視で投下したため、悪天候などのために長崎に変更になったのだという。


   ◆


ヒロシマ、コクラ」
 彼は繰り返す。彼が何を知り、何を思い、何を訴えてこの二つの都市名を並べて発声しているのか。どうしてもそれを聞きたくなった。なぜコクラなのだ?
 食堂車には少なからぬ人もおり、職員もいる。だれか、わずかなりとも通訳してはくれまいか。私は彼らに、「Anyone can speak English?」と言ったが、何の反応も無い。雰囲気は、ワカラナイ、ハンノウシタクナイ、だった。車掌が通りかかったので、「Can you speak English?」と聞いてみたが、同じ雰囲気で逃げるように去った。
 私は英語に堪能ではないが、わかってもらえないほどひどいわけでもない。ほかのどの国でも、カタカナ英語で立派に旅してきたのだ。だが、ここではエイリアンから脱せない。
ヒロシマ、コクラ」
 彼はまたくりかえした。
 私が、先ほどの日本地図のヒロシマのあたりに印をつけると、彼はちゃんとコクラのあたりに印をつけ、何一つわからない言語で、語り続ける。
 私はあきらめ、自分の知っている小倉の話を日本語で話した。彼はポーランド語で何か言っていた。雰囲気さえ通じていなかったと思うが、互いの目を見て、それぞれが自分のコトバを語っていた。
 
 クラコフの駅で、ポーランド在住の日本人が待っていた。
 ポーランドでは小倉について何か特別に知られているのかと聞いてみたが、特に思い当たらないと言い、この日本人は、小倉が持つ軍事的な部分さえ知らず、なんでそんなマイナーな町、と笑った。

 

 ともあれ、私はこの人の案内で豪華な食事を取り、それから車でアウシュビッツへ向かった。アウシュビッツでは、多言語での表示や案内書があって、雰囲気だけでなく言語的理解を伴いながら見学することができた。
 再建された収容棟の前に、一人の老紳士が立った。同行の日本人が通訳して言うに、戦争を体験したユダヤ人たちが、交代で当時のことを伝える時間が設定されているそうだ。その老紳士は、ほかの収容所を体験した人だという。
 老人が語り始めたときは、その日本人は、内容を要約しながら私に伝えてくれていた。だが、少し話が進むと、その人はそれができなくなった。嗚咽を飲み込むのに必死で、やがてはらはらと涙こぼした。ユダヤ人の老人は語り終えて黙って佇み、聴衆も誰も動かなかった。そして歴史に興味のなさそうだった日本人が一人、声も立てずに泣いていた。
 通訳してくれなくても、それで十分だった。収容所についての「知識」なら、他でも得たし、今後も得られる。だが、あの空気はあの場でしか得られないものだ。だから私は翌日もその後も、ぼろぼろ泣いていた人に改めて話の内容を聞くことはしなかった。聞かなくても「わかった」と思う。

 

コクラは未だに謎である。