素敵な学校

これからの人類のために、自分の快適な生活のために、すてきな学校を考えます。

なまけの森

私の故郷は「なまけの森」です。
とも言える。
今回は「文化学院」の話ではなく、「母校」の話です。


高校に入学してすぐの漢文の時間、戦前からいたという老先生はいきなり平仄(ひょうそく)から入ったものでした。
その先生が窓の外を指して、教えてくれました。
なまけの森。
だだっぴろい学校の、第一グラウンドと第二グラウンドの間に、数本の木が生えていた、それです。


もとはもっと木があったようですが、私たちのころには、数本ぱらぱらと立っているだけでした。それでも、
「なまけの森は、授業をさぼって本を読むところです」
この学校はそういうところです、と、そう聞こえました。


実際は、そんな教室から丸見えの数本の木のところで本を読む生徒はいませんでした。でも授業のときはたいていいくつか空席はありましたね。
本を読んでいたかどうかはべつとして、ま、それなりに。


都立の中でも「自由な校風」と言われる学校で、先生という存在は、その人のカラーの出た授業をしっかりやって、放課後生徒が声をかければ一緒に本を読んだり話をしてくれて、それ以外は生徒をほっといてくれる人たちでした。
私服だったし、いわゆる「規則」がどーたらというようなことに思考力や労力を割かれることなく3年間過ごせました。


私はいつも思うのですが、「自由」と言っても、文化学院は「温室」、とよたま(あ、「豊多摩高校」って言います。平仮名が似合う感じ)は「サファリパーク」です。私たちは放し飼いにされて、勝手に走り回ったりだらだらしたり冒険したり失敗したりして雑に育ちました。
さぼる時間もそうだけど、自由な分、自分でやって自分で受け止めて、自分でコントロールことを会得するものでした。


でも、時代は変わり、都立高校の制度も変えられました。私の価値観からすれば改悪だらけです。それには怒りを感じます。
だから、とよたまは変わってしまった……と言うべきなのでしょうが、もちろんそうも思いましたが、じつは究極のところ、否定的にはとらえていません。
中にいる人たちのことを伝え聞くに、いろいろ形は変わっても、本質は変わらないのだと感じることがあったからです。
人は変わっても、とよたまで働きたいと望んでくる先生たちが多いそうですし、少なくとも友人・知人の子供たちでとよたまに通った子たちは、「とよたま大好き!」なのです。おう、私もだよ! 今でもだよ! 
地元の人以外誰も知らない中堅都立高校の名前を、誇らしげに名乗る卒業生、その点で、彼らも私も同じ魂を持っていると言えるでしょう\(^o^)/


航空写真を見ると、今は二つのグラウンドはつながっていて、「なまけの森」は、もう木の一本もないようです。
100メートルの銀杏並木は健在ですが。


とよたまは、私の今住んでいるところからもそう遠くありません。というか、電車・徒歩で正味30分。むしろ近いっ。
でも、大学時代を最後に、行ったことがありません。
教わった先生がもういないからとか、なまけの森がないいから、とかじゃありません。銀杏並木や広い敷地の空間は昔のままでしょうけど、それもわざわざ見に行くほどでもない。


年々その意識が強くなっているのですが、自分の背骨の中心、髄液の中に「とよたま」が流れているからです。常時お持ち運び中。だから行かなくてもいい。
三年間で自分が何を、どう学んだかと言うことが、年齢を重ね経験を積むごとに明らかになってきているのです。……ということをかつての同級生に話したら、やはりとよたま大好きだけど、そこまで考えたことなかった、と言われました。
多分私が学院で、高校生と時間を過ごし、彼らとの時間をどう過ごすかを考える中で、自分が10代で得たものは何だったのかを、噛み砕き噛み締め分解し再構築し続けたのだと思います。理想化もしちゃってるでしょう。
もちろん高校生活全部バラ色だったわけもなく^_^;、 でも感覚ではなく論理によっても、「得たもの」を再確認する日々。そしてその得たもので、私の生の何割かを生きているわけで。


私は母が文化学院の卒業生でかつ講師でもあったので、「文化学院的なもの」を呼吸して育った、細胞に入っているかもしれません。同時に、背骨にはとよたまが流れている。
私が学院でやっている、たぶん学院ならではの授業には、ご家庭経由の古い学院と、なまけの森が入ってるのです。


ちょっと愉快な気分だったりします。