素敵な学校

これからの人類のために、自分の快適な生活のために、すてきな学校を考えます。

母の「思い出話」

私の母は文化学院女学部の卒業生です。
西村伊作が校長だったころ、日本文学は与謝野晶子、英文学は若き西村アヤの授業を受けました。
戦前の、学院が廃校になる前の話です。
その後、卒業後間が空いてのことですが、高等課程で手工芸の講師をしていました。


私は、2歳ぐらいのころ、母と一緒に伊作先生にお会いしたことがあるようです(残念ながら覚えていません)。
母の話によると、どこかホテルで何人かでお食事をしたようです。
どこのホテルだったか、ほかにどなたとご一緒だったのか、ちゃんと聞いておけばよかったと今は思います。昔は母がたくさんする思い出話の一つでしかなかったので、聞き流していたのです。東京だと思うけれども軽井沢だったかもしれません。


ホテルのロビーはつるつるした石の床で、幼い私はそこに腹ばいになって、くるくる滑って遊んでいたそうです。
すると伊作先生は母にこうおっしゃいました。
「あんたはいいねえ。こういうときに、だめよ、なんて言わないから」


ロビーは広くて空いていて、誰かの邪魔になったり危なかったりすることもないから、母は無意識で放置していたのです。でも伊作先生にほめられて、うれしかったそうです。


その後、伊作先生は売店で私にHERSHEY'Sのチョコレートを買ってくださいました。
それを渡してくださるときに、楽しそうに、
「舶来だよ」
とおっしゃったそうです。


伊作先生がほかの方とお話ししている間に、私がチョコを食べたいと言い出したので、母は開けて食べさせました。
後で伊作先生が戻っていらして、にこにこしながら、さっきのチョコレートを開けようかとおっしゃると、母は、食べたいといったので食べさせてしまいましたと答えました。
すると伊作先生は、
「そうか、よかったね」
と、じつはちょっとさびしそうなお顔をなさったそうで……


小学校高学年ぐらいのときにこの思い出話を聞いていた私は、ここで非常に遅ればせに叫んだものです。
どうして少し待たせなかったの? 伊作先生とごいっしょにいただきましょうねって言えばよかったのに。私はそれで泣きわめくような子じゃなかったんでしょ? ちゃんと待ったのに!


そうです。私は幼いころものすごくおとなしい子だったのです。
わがままもあまり言ったことがない……のは母親がこんななのでわがままとして成立しなかっただけかもしれませんが。あるいは、度が過ぎることがないから「好きにさせる」が成立したのかも……。


ともかくそのときは、「楽しそう」→「さびしそう」が目に浮かんでしまって、憤懣やるかたなく。ああ、どうしてチョコのことしか考えられなかったんだ過去の自分! 
小学校高学年にはすっかり生意気になっていましたが、感受性は豊かな子だったのです。今もだけど。


まあ、母もそのときしまったと思ったから、思い出話がこんな構成になっているのでしょうね。

 

 

そういえば、母の思い出話に学院の建物が登場したことはほとんどありません。
伊作設計におけるアーチ(一般名詞)のことは話しましたが、自分の思い入れで校舎や「あの」アーチのことを話したことはないと思います。
このホテルの話のように、「人」だけが登場して会話する、背景のよくわからないある意味ラノベ構造。
彼女にとっては建物は特別なものではなかった。伊作先生やアヤ先生がいらしたから、当時はあたりまえとおもっていたから、ということも当然あるでしょう。同時に、たぶん、何かにシンボライズさせるという感性を持たない人だったと思います。

 

 

 

とりあえず、今回の一文では、なんとなく謝っておきたいと思います。
すみません、伊作先生、みなさま、親子で大人げなくて。
よくもわるくも……過去も未来も……。