素敵な学校

これからの人類のために、自分の快適な生活のために、すてきな学校を考えます。

「すごいもん見せてもらった」


それは肚の底からの絶叫でありながら、観客を笑わせ続けた。
作品内部に通底していたのは、うおおおおおおおおというような野太い叫びで、しかし軽妙なセリフと飽きさせない展開の楽しい時空に観客は巻き込まれた。


逆接を使ったが、ほんとうは順接を使うべきかもしれない。
それは絶叫であったから、それに衝かれて観客は楽しまざるを得なかったのだ。


今年の高等課程の「卒業修了展」での朗読劇『昼行生』だ。
三年生のKによるオリジナルの脚本・演出で、文芸コースの2・3年生全員(といっても9名)出演の作品だ。

今回の卒業修了展で朗読劇をやることにしたのは3年生で、2年生も全員出演というのは、脚本のKの意向だ。だからたぶん、最初は2年生はついてきていただけだ。
しかし、実際に公演を見ると、9人全員が粒が立ったお米のように!? とりかえのきかない人物として、舞台に存在していた。
それは、脚本の力だと思う。


公演は3月14日と15日。私は2日とも見た。
初日は、見ながら自分の細胞一つ一つが揺さぶられ、深夜まで体内から絶叫と笑いの高揚感が湧き出し続けた。
最終日は、後半から、セリフの一つ一つ、展開の一つ一つに、登場人物だけでなくそこに出ている生徒一人一人のあれやこれやが重なってきた。


初日が、純粋に作品に打たれたというべきだろうけれども、2日目も、単に「生徒たちががんばってる」レベルの教師馬鹿にありがちな感動ではなかったことは保障する。人間への切り口が鮮やかなので、それが作中の人物にも現実の生徒にも自分にも切り込んでいたということだ。


こんなふうに葛藤しながら生きてる、この子たちも、私も、ということを突き付けられつつ、ずっと笑わされっぱなし。なんだこれ。

 

「すごいもん見せてもらった」

二日目を観たある専門課程の先生のお言葉。

 

 

Kには、これまで私が彼女に付けなかった「A+」をあげよう。もう、「+」を300個ぐらいつける。


Kは「書ける」子だ。私が彼女に最高点をつけないできたのはそれゆえだ。
彼女はいつも視点が明確で分析が鮮やかで完成度の高い文章を出してきた。うっかりA+をつけちゃいそうなものを書いてくる。
でもだからこそ、私は自分に条件を課した。「彼女に、『次』を示唆すること」だ。


彼女が、「自分の領域」の内側に線を引くことで着実に完成度を上げてくるとき、私はそこを見破って、「ここんところから『次』の場所にいける可能性があるんじゃない?」と、領域の外側への示唆をしようとする。それをしてこそセンセーだろー、と勝手に思っていた。


領域の外側への広がりは同時に、自分の内側への深まりでもある。
私はKにそれをしてほしかった。


そして、この成績なんかとっくに出しちゃったあとの朗読劇で、Kは私の要求水準をはるかに超えたものを見せてくれた。


ほかの8人の生徒と、照明・音響など協力してくれた他コースの生徒たちと、卒業公演という特別な時間と会場と、それらもろもろの総合体として、なんかものすごく大きくてパワーのあるものとして、ぶつかってきた。
(+が300倍になったのは、この総合体ならではことだろう)


2年生の一人が言っていた。
「最初にこの脚本を見たときは、なんだこれ? と思った。練習しているうちに、だんだんわかってきた」


たぶん、出演者たちそれぞれが、この脚本を発見していったのだ。
だから、私たち観客は、登場人物と重ね切りされるみたいに、脚本の刃に切られたのだ。


アフタートークで、Kのリーダーとしての強引さに言及されていたが、たぶん、今回もっとも強力な牽引車だったのは、脚本そのものだと思う。
脚本自体の内部で燃え盛るものがあり、どんどん深まっていく深淵があり、それを共有することで舞台の完成度が自然に上がっていった。


……んじゃないかな、舞台裏知らないけど。
私という「客」にはそう見えた。


今回私は、この朗読劇のあらすじ紹介はしない。シンプルかつ効果的だった舞台装置についても説明しない。私が何に打たれ何が刺さったのかという評論もしない。


ここに、必然としての表現衝動が存在したこと。それを書いておきたいだけだ。

大切な言葉


大切な言葉というものがある。

いわゆる「いい言葉」のことを言っているのではない。


近年私にとって印象的な「大切な言葉」の一つは、ちょうど1年ぐらい前に聞いた。


両国移転が決まったとき、それについて説明もおよそ不十分だった中で、当時の高等課程の三年生たちが、「新校舎予定地見学」を学校側と交渉して実現させた。当日私も声をかけられて連れて行ってもらった。


まだ前のリハビリテーション専門学校の器具や設備や臭いがはっきり残る建物。狭くて暗い。
みんな口には出さないけれども、気持ちは沈んでいたと思う。理不尽への怒りが渦巻きすぎていたとも思う
(その設備や器具ででさっそく遊んじゃうすばらしい「お子様」たち数名がいたのが、学院のホコリであったが)。


その空気の中で、今狭くても高等課程が無くなる前提ならちょうどいい計算なのかも、というようなことを言った生徒がいた。
至極淡々としていたので、一人の先生が笑った。
「きみはクールだね!」
「クールじゃないよ、悲しいよ」
彼は軽やかに答えた。


悲しいよ。
これがその時の「大切な言葉」だと思った。


後日、これをほかの生徒たちに振ってみた。「悲しいよって言ってたよ」
するとみんな固い顔で首を横に振った。
「それは言えない……」


1年前に卒業したばかりの卒業生にも言ってみた。
「……それは言えないね……」


そうは思わない、という答えではなかった。それは言えない、だった。「悲しいとは言えない」でさえなかった。その単語を避けたのか指示語での答えだった。


それがみんなの中にあった、心臓に最も近い言葉だったからではないだろうか。

 

大切な言葉というのは、だって事実だもん、なことだろう。
気分的にネガティブになるとか、ポジティブになろうとか、そういうもの抜きの、だ。
みもふたもない、というのが実は「大切」に近いのかもしれない。

 

あのころ、古い卒業生の一人も「大切な言葉」を発した。
高等課程(昔は高等部だったしね)廃止のニュースを聞いた古い卒業生たちがFaceBookで発した言葉は、大方こんな傾向だった。
時代の流れだからしょうがない、どうせ昔の文化学院はすでに失われている。
など。
それはもちろんそれで重い実感の言葉ではあったけれども、何か「もどかしさ」が、書いた側にも読む側にも会ったように思う。


その中で、一人が、私のウォールに一言だけコメントを書いた。
「やだ!」


これも「大切な言葉」だと思う。
みんなの根底は、この一言でしょう? お利口そうなしょうがないやどうせというラッピングをほどけば、最後に出てくるのは、本当は「やだ」という一言でしょう。


それが痛いからいろんな言葉でくるむ。


学院はすでに変わってしまったという言葉も、「あの時の学院」が無くなるのが、無くなっているのが「やだ」だからでしょう。


大切な言葉というのは、じつはとてもシンプルなものなのだろう。
その大切な言葉を大切に扱う過程で、言葉の数が増えることはある。そのときも、余計な言葉はいらない、必要な言葉だけを選び取ろうとすることそのものが、「大切に扱う」ことだと思う。


「悲しいよ」も「やだ!」も、創造的な言葉でも前進する言葉でもない。
しかし、そのままの、その言葉こそ、出発の言葉になりうる。空虚な励ましや景気づけの持ちえない、平坦で理性的な自分の立っている地点の表現、それは「可能性」に必要な土壌かもしれない。

 

    *   *   *


おまけ。
あれから一年経った。
いつものように早いなと思いつつ、一年前とは「隔世の感」がある。
土地が変わったし、個人的にはそれ以上に、「十代が新しく入ってこない」ことの違和感が大きい。
それでも、案の定と言うべきか、学院の生徒たちはちゃんと学院の子としてこの一年を生き、それぞれの成長や変化や挫折や停滞や創造や、そういう10代の一年で出会うもろもろをやらかしている。
移転したばかりのころ、外で卒業生に会って、「新校舎はどう?」と聞かれて、私はこう答えた。「狭い・汚い・暗い・臭い」。そこまで言う! と笑われたけど、シンプルな事実なんで。これは変えようがないが、最後の「臭い」だけは、少し変わった。「学院生臭く」なったよ。
人間がその場所で生きるというのは、そのニオイがしみつくということなのかな。

 

宇宙戦艦と学徒兵

 

この8月はFaceBookでも戦争関連のことを書かなかった。

8月だから言わなきゃいけないってもんでもない。戦争は何月でもやっていたのだから。
なぜ8月かと言えば、それは「終わった」月ではなく、「始まった」月だからだろう、戦後生まれの私たちにとっては。
8月の最後の日、やっぱり書いておこうかなと思った。


と、なんだか大上段で書き始めたが、他愛もないことを書くつもりでしかない。
言い換えれば、他愛もないことの中に「始まった」が織り込まれているのが現代なのだけれど。


先日、漠然とテレビをつけていたら、「ガンダム」の話題が出ていた。
そのとき、同い年のヲットがこう言った。

ガンダムはいまいち知らないんだよな。ぼくはアニメ好きじゃないのもあるし、世代がちょっとずれたからね」
ちなみにヲットは特撮好き(文字通りの「特殊撮影」好き)なので、それ系は世代がずれてもわりと見ている。
「『ヤマト』までかなあ、ああいうの見たの」

 

宇宙戦艦ヤマト』は、私たちが高校生の時にテレビ放送が始まった。同級生たちに人気だった。
でも私は見ていなかった。
最大の理由は、そもそもその頃(中学~20代)、テレビをほとんど見ていなかったこと(ニュースと天気予報と、たまにドキュメンタリーは見た)。
9割方紙人間で、文学と新書と、エンタテイメントは漫画の単行本(雑誌は読まない)だった。
つまりすべてのテレビアニメに興味がなかったというのがデフォルトで、ある意味同世代と話が合わない。


友人たちの話を聞いて、まったく興味を持たなかったわけでもないのだが、聞きかじりの段階である種の違和感が邪魔をしていた。


私の世代では、親の多くが「昭和一桁」、若ければ昭和10年代である。戦争中に子供だった世代だ。ヲットの両親もそうだ。
私は、両親と年が離れている。
父母ともに大正12年、1923年生まれである。
つまり、1945年には22歳。


私が当時同世代の高校生たちと違う感覚で「戦艦」という言葉を聞いたのは、父が実に曲りなりに短期間であるが、「帝国海軍」に所属したからだろう。


学徒兵である。
大学生は、当初は20歳になっても徴兵の猶予があったが、1941年以降、猶予対象枠は狭められていく。父は私立大学予科から徴兵された。


大学に行けばしばらく大丈夫だと思ったのに、が本音だったそうだ。それでも当時の青年として、覚悟は決めて訓練を受け、「学徒出陣」の群像の一人となった。
大学時代、仲の良い同級生4人組みで語ったり遊んだりしていたようだが、その4人もバラバラに配属され、戦後しばらくたつまで様子がわからなかった。
結果から言うと、父は大きな負傷もなく帰還し、友人三人は戦死していた。


60年代、私が幼稚園のときだと思うが、確か父は海軍をテーマにしたラジオドラマに関わっていて、ときどきその未完成のナレーションが家のオープンリール(テープレコーダー)から聞こえていた。
私は幼かったので脈絡はわからなかったが、「むさし」「ながと」「やまと」などの言葉はその時覚えた。
「古い国の名前がついているのはセンカンだよ」と教えられたことは覚えている。


「戦艦」が現実の乗り物であり兵器であり死であるという記憶と実感を持った人間と、同じ屋根の下で育ってしまったのである。
戦後生まれ高度成長期の申し子の癖に、なにしろ感受性豊かなので、その感覚を自分の中にかなりコピーしてしまったように思う。


だから、同級生と同じように、フィクションとして、ファンタジーとして、エンタテイメントとして、「うちゅーうせんかん、やーまーとー」というノリにはどうも踏み切れなかったのかもしれない。


放送当時、父が少しだけそれにふれたことがある。戦艦大和など作っている時点で軍部の見識のなさは明らかで、それは単に大和を沈めただけでなくそれ以外の戦闘での敗北と死すべてを作り出したのだと。そんなもん復活させてどうする、と鼻で笑って、黙った。


宇宙戦艦ヤマト』制作に関わった中心的な人たちは、父よりも10歳~15歳下の世代である。
戦争中の小学生の男の子たち。ものがない、ひもじい、家族が出征して死ぬ、という体験はしている世代である。
それと同時に、戦艦や戦闘機を「夢」として育った世代でもある。
あの作品はまさしく、その世代の男の子たちの夢丸出しのものだった。


戦艦も夢、古き良きまだ宇宙に飛び出していない時代のSFも夢、として大人になった男の子たちの夢の結実が『宇宙戦艦ヤマト』である。
そういう意味で作品としてよくできていると思う。


戦争当時の学徒には陸軍より海軍の方が人気があり、父は趣味が「登山と乗馬」だったにも関わらず海軍に配属され、それを喜んでいた。戦後でさえ、海軍にいたことは少し誇らしげで、そういう意味ではその「戦中の男の子の夢」は彼も持っていたのだった。


だから『宇宙戦艦ヤマト』への違和感の方だけ受け継ぐいわれはないし、のちにパロディ漫画をきっかけにそのおもしろさに気付いた。それでもどうしても、夢と死線の相剋の際から見てしまう部分は、私の中から消えていかない。

放課後文芸


去年の冬、まだお茶の水の旧校舎にいたころのことです(中庭があったのは旧旧校舎ね)。


当時の高等課程1年生美術コースの生徒で、しょっちゅう文芸コースの授業に遊びに来ている子がいました。
当然美術の時間を抜けてきているわけで^_^;
でも、2時間続きの授業で、私も休み時間は毎回の流れによってとっていたし、ほかの授業もチャイム通りの休み時間ではないことが多かったと思います。彼も最初のころは美術の時間の休み時間などに来ていたのです。
そのうちに、ちょっと待て、休み時間長すぎやしないか? というぐらいいるようになって……。


まあ、古文でもやりはじめれば飽きるだろう、と思ったら飽きない。文法は飽きるだろう、と思ったら飽きない。
むしろやりたいと言う。


じゃあ、自分の授業をさぼらないで、放課後の時間を使ってでもやりたいというのなら、面倒見てやろうじゃないか、と言いました。


そして彼は本当に放課後やってきた。


こうして、最初は一人の美術コースの生徒のために、文芸コースの授業でやるような古文をちょっと読むことからスタートしました。
週に一回、2時間ほど。
講師の一人が、高校時代を海外で過ごしたので古文の授業を受けたことがないからと参加するようになり、通りすがりの生徒がなんとなくそのまま参加する羽目になり……私も含めてたいてい4人で、ゆっくり古文を読んでいました。
旧校舎は非常勤講師のスペースが広かったので、そこのテーブル一つでやっていました。


なんとなく、「放課後文芸」と呼ぶようになりました。


そのうち、ほかにも参加したい人が出てきて、変則的ではあったけれども人数がちょっと増えることがあったので教室を取るようになりました。
両国に移転してからも、このペースは続きました。
講師スペースが狭くなったのと、参加人数が微妙に増えたのとで、教室を取ってやるようになりました。
最初の生徒、自称「部長」は、2年に上がるときに文芸コースに転科してきたのですが、それはそれ、これはこれ、みたいです。
まあ、私が文芸2年で持っているのは「雑誌制作」の授業で、古文を読んだりする時間はあまりとれないので、希望者だけで楽しむのは悪くないです。


最初のころは、一回完結で読める説話が入門にはいいだろうと、『宇治拾遺物語集』から選んで読んでいました。
そのうち、雑談中にみんなが『源氏物語』の「夕顔」の巻を読みたいと言い出しました。
私もとても好きな巻ですが、しかしなんといっても今の力量では源氏は読みづらい。
そこで、時代背景の解説なども併せて『伊勢物語』を少し読んでから、夕顔に入りました。
最初はみんな「やっぱり源氏難しい!」と言ってぜんぜん進まなかったのですが、だいぶ慣れてきました。
まあ、難しそうな単語や文法は、私がさりげなーく妖精さんのようにサポートしちゃってるんですけどね。
でも、週に一回でも、自分たちで原文を読んでいると違うなあと感心しています。最初はサポートする私が、濡れた砂袋を引きずっている感じだったのが、ずいぶん軽やかになってきました。


この夏休みは、「部長」はじめ2年生の面々は雑誌編集のためにけっこう学校に来ています。
それじゃあということで、私も週に一度は学校に行って、夏休みだけど「放課後文芸」です。
夏休み中は、いつものメンバーがいないこともありつつ、2回ほど、それぞれ別の卒業生も顔を出したりもしています。


こんな感じのこと、そういえば10年ぐらい前の生徒とやったことがあったなあ。短期間だったけど。
あのときは古文じゃなくて、短編を読んでました。

 

私が卒業したとよたま高校でもこんな感じのことはいくつか行われていました。
その後私が第2の専門とするようになったセクシュアリティのことも、高校時代の放課後に始まっていたのでした。


私はバイトなんで、放課後や夏休みはタダ働きっす。夏休みは交通費は持ち出しっす。
だからこれは「趣味」です。
生徒と私が飽きないうちは、のんびり趣味生活を続けます。

 

 毎回の様子は、文藝文化のtwitterで簡単に報告しています。

ぼーっとしてたら

すっかり間が空きました。
夏休みに入っちゃったよ。


新しい校舎で、新しい生活を、いままでどおりの気持ちで創ること、それで手いっぱいというか、いつもの新学期の通り忙しく楽しかったもので。


学外で読んでくださっている方々には、もどかしく思われてメッセージいただいたりして、申し訳ありません&ありがとうございます。生徒からも更新ないねーと言われちゃった。

 

今の文化学院は、「昔の」文化学院ではありません。
おもしろいことに、「昔の文化学院」は、その言葉を言う人によって、「いつの」かが変わります。
私が言う「昔の文化学院」は、幼いころおとぎ話のように母から聞いた、戦争の前の話、西村伊作が校長で、与謝野晶子がよく聞こえない(小さい声で)授業をし、若き西村アヤと「輪踊り」をしていた、私自身が見たことのない、文化学院です。
巻き戻しすぎでしょうか?
私はと言えば、25年前に学院の講師になった時と同じように、おもいつき&なりゆき次第の授業をしています。
やっていることは成長したり変わったりしていますが、そのいーかげんな根幹は変わりません。断固いーかげんであります。えへん。

 

両国の町や、狭くてダサい校舎になじみにくかった人も、わりとすぐなじめた人もいて、最初はいろいろでしたけど、一学期終わって、やっぱり学院は学院だと私は思っています。ほかの人はどうでしょうか。

 

まあね、お茶の水にあったらよかったのに、は思います。嘘はつかない。
でも、両国もそれなりにいいです。嘘はつかない。


私は杉並区で生まれ育ち、大学がかろうじて山手線の内側(の西の端)ですが、基本は山手線の西の外側が生息地域です。お茶の水が、なじみの場所の最東端でした。


川と言えば、善福寺川玉川上水、多摩川、神田川、です。


それが、学校に行くたびに隅田川を渡るのですよ!
隅田川の向こうなんて、たま~に休日に遊びにいくところでしたから……観光地、旅行気分。
おおー、隅田川だー、広いーーーって、いまだにテンションあがりながら通っています。


東京スカイツリーが、その広い川幅の向こうに見えます。
あれが「一番高い」とかはどうでもよくて、単に巨大建造物・特に塔が好きなので、これもテンションあがります。ほんとうはもっと角のあるデザインが好きなのですが、とりあえず隅田川とスカイツリーの「量感」は好き。


それに隅田川は、伊勢物語をはじめとして、文字に書かれたもので親しんできたので、私にとってはファンタジーな川です。それらの文学に書かれたときとは姿が変わっていたとしても、「この川」と思うと、それらのファンタジーの中に入っていく感じがします。


5月に大相撲夏場所があったときには、学校から帰ろうと駅に行くと、向こう側の国技館から、相撲太鼓が聞こえて、子どもの頃からテレビで聞いてた音だ! と、またしてもテンション上がり、いっしょにいた生徒たちに不振がられました^_^; 祖父が「巨人大鵬卵焼き」な老人だったし、私も一時期よくテレビで見ていたので、こんなふうに聞くのは初めてなのに、懐かしくもありました。


駅やコンビニでふつーにおすもうさんがいるのもよい。
これも、私が子供のころは阿佐ヶ谷に双子山部屋があって、ときどき見かけていたので、珍しいとともに懐かしい光景です。


先日、両国のホームから改札へ向かって下りていたら、何かの見学でしょうか、制服を着た男子高校生の団体と一緒になりました。改札階に降りた時、
「あ、土俵だ!」
とみんな叫んでいました。
うん、そうだよ、と、もう地元民気取りで追い越しました^_^;


観光案内みたいになっちゃいましたが。
どの町にも、その町の個性や風情があるものだと。私はそれが好きですねえ。
ランチを食べようと思うと軒並み量が多いのはちょっと困りますが、私サイズの店も少数見つけたし、「学校帰りに隅田川端でどぜう鍋食す」というのも新鮮です。


新鮮が重なって、日常になるのでしょう。


ここに書いたようなことは日々楽しんでいます。
さまざまな不備・不便はありつつ。小さいだけでなく司書のいない図書室(ありえん)、学生スペースが無い(ざけんな)、各コースの専門の設備なども上げればきりがないでしょう。
しかし、爪に灯をともしてやりくりしながらも、十代たちは日々成長をやめないのでありますから。
学校の中身、生徒たち・授業はまあ、今までと変わらず、いろんなことがあります。テンション上がることも下がることもあるけど、究極のナマモノである十代諸氏と上がったり下がったりするだらけたコースターみたいな日々を送るのこそ(時々想定外のことが起きる! 良くも悪くも!!)、私にとっての学院の楽しみなので。
あー、学校に来ない子がFaceBookで充実した毎日のこと上げてて、うらやましいと思ったりも^_^;
そんなのも学院の楽しみの一つですよ。


こんな日々です……って、のんきすぎやしないか^_^;>ムギコ


私は出勤しない曜日だったのですが、一学期最後の日は、「夏祭り」をやったみたいです。
のんきだったりさぼったりもりあがったりだらけたりまなんだりあそんだり。


うちの母は、与謝野晶子の授業の声が小さくてつまらないと、机の下でスタンダールなんか読んでいたそうで。授業をさぼってベンチで本を読んでいたら、伊作先生が黙って横に座って、あー伊作先生だーと思いながら読み続けていたそうで。
だめな生徒だなあ。
でも、私は今でもそういう「学院」でありたいです。(内職やサボリのすすめではないけど^_^;)
……そのわりにはちょっと「がんばっちゃう」ところあったな、一学期。
反省。
もっと良い加減でいこう。