素敵な学校

これからの人類のために、自分の快適な生活のために、すてきな学校を考えます。

すてきながっこう

ブログタイトルを変えました。

もちろんテーマも変えます。

ごぶさたしているうちに、文化学院にはさらに変化があり、2017年8月現在、専門課程2年生(2年制)だけになった在校生を、私は絶滅危惧種と呼んで可愛がっております。それをそうそう可愛がらせてくれないのが学院の学生であります。

 

そう、やめるのは高校どころじゃないという事態になり。

 

すてきながっこう、について考えたいなあ。

そのためのブログにしよう、と思いました。

 

古い卒業生は、中庭とアーチを愛し、当時の先生方を愛し、お茶の水の町を愛し、それでなければ文化じゃない、と言う人もいます。

在校生はそれを聞くと、おれらディスられてる、と言う子もいます。

中庭もアーチもない、先生もだいぶ様変わりした両国の学校で、彼らは「こんな学校他にはない」とうれしそうに言います。

私が、文化学院が変わっていない、というのはそういう意味です。

 

自分のいた学校が一番いい、それは素敵な学校でしょう。
ちなみに、私にとって文化学院は二番目に素敵な学校です。

日本一は東京都立豊多摩高等学校(1970年代)。それは私がそこで醸造されたからです。

 

外であった人に教員です、というと、自分の出た学校がいかにひどく、教師がダメだったかを聞かされることがあります。私がやったことでもないのに苦情を言われることもあります。
自分の出た学校や学院の話をしても、「そういう特別な学校もあるでしょうけど」ととりあってもらえません。

文化学院は特別な学校かもしれませんが、とよたまは中堅公立校なんですけどね。

 

私は愛国者なので、日本の学校が素敵であってほしいです。

そのためには、いい呪文をかけることだと思います。

 

そこで、このブログは、「素敵な学校」について、書き綴っていくことにしたのです。

 

 

戦争を知らない子供たち


1970年、「戦争を知らない子供たち」という歌が流行った。当時私は12歳の小学六年生。
今から思えば、世間は安保闘争ベトナム戦争があり、まだ立川に米軍基地があったころ。
しかしいたってのんびり……というか、父親が次々に与えてくる本を片っ端から読み、小学校から帰るとランドセル投げるや本ばかり読んで勉強しなかったので、いまだに分数の計算ができなかったりする。
私はいとこたちの中では年下の方で、一回り上のいとこたちから文化的影響を受けた部分がわりとある。絵本や漫画のお古をもらったり、音楽を聞かされたりした。


60年代に大学生や専門学校生だったいとこたちが聴いていたのは、ピーター・ポール&マリーやボブ・ディランなど。当時プロテストソングと呼ばれた洋楽が多かったが、そろって、「ノンポリ」であった。
私は彼らに教えてもらった歌手のうちではPPMのハーモニーが好きだった。

 

PPMから入ってしまったお子様には、当時の日本のフォークは、声も歌詞も「甘い」感じでそれほど好きなわけではなかった。
ただ、新しいものは嫌じゃないが、流行り物には鑑定眼が厳しくなる親のいる家で育ったので、逆に流行っているものには、縁日の怪しげなお菓子のような魅力を感じてしまう面もあった。
それで、『戦争を知らない子供たち』について、ちょっと浮き浮きして、それほど深い本心でもないあの発言になったのだ。


「♪戦争を知らない子供たちさ~
 私も知らないよ、この歌の主人公なんだよ」
「あら、そんなのただ戦後に生まれたってだけよ」


間髪を入れず母のガチな答えが返ってきた。
うちの母は普段ふわーっとした雰囲気で、悪く言えばぼおーっとしていて、いろんな人にあんなやさしいお母さんでいいねと言われたものだけれども、それはその通りなのだけれども、しかし、自分の考えははっきりきっちり言う人だった。
ただ^_^; 人がたくさんいるところでは、ぼーっとしているだけに出遅れてしまい、またしばしば話がそれてしまい、きっちり言語化できるのは主として家庭内だった気がする。

以下、母の発言である。
(私はというと、軽い発言に超ガチで返されたので、完全に聞き役^_^;)


「明日戦争が始まると言ったら、みんな反対するでしょうね。でも戦争はそうやって始まるんじゃないの。少しずつ、少しずつそっちの方向に動かされていくのよ。
Y叔母ちゃんは私の4歳下だけど、それだけでもう違う、もう軍国の子供なの。私はまだ、その前の時代の感覚を知っている。
そうやって少しずつ戦争の方にずれていくと、それがあたりまえだと思う人が増えていくのよ。そうしたら戦争は嫌だって言う人がおかしいということになっていく。
そうしたらね、今ああやって戦争は知らないって歌っている人たちだって、戦争をするようになるのよ

たまたまその時代にいるっていうだけで、平和の歌を歌ったり戦争をしたりするだけなのよ。

だから、戦争が嫌だったら、時代が少しずつ動くのをちゃんと見てなきゃ意味ないのよ」


高度成長期の子供である私が、戦争は怖いと心底思ったのは、原爆の記録映画よりも、『野火』よりも、母のこのガチの言葉だったかもしれない。
これは記録ではなく予言だからだ。
気づかないうちにじわじわくるもの、気づいた時には戻れなくなっているものの予言だからだ。
12歳の子供の、過去よりもずっと多い未来に、それは確実にいつか来るものであるかのように居座った。

 

あのときああやって歌っていた20代のおにいさんたちは、今は60代70代になっている。孫のいる人たちもいるだろう。
その孫たちも「戦争を知らない子供たち」だ。
私の一番年上のいとこは昭和21年生まれ、初めての「戦争を知らない子供」として、上の世代の喜びの中で生まれ、育った。彼女の成長の節目のたびに、新聞の一面に「戦後生まれの子」が小学校に入ったの成人したのと載ったそうだ。戦後13年目に生まれた私の世代に関しては、もう戦後どうこうは言われなくなっていた。もうあたりまえになっていたからだ。
そしてその後ずっと、戦争を知らない子供たちが生まれ続けている。


なんてことをつれづれに思う9月16日だった。

 

 

 

 

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  *安保法制・憲法などに関する私見はもちろんありますが、それはまた別の機会に。

 

追記

母は1923年(大正12年生まれ)。

1937年 盧溝橋事件のときは14歳(文化学院在籍中)。

1941年 真珠湾攻撃のときは18歳。

 なるほど、まさしく戦争の「じわじわ」の最後の詰めが母の十代の「時代」だったのだ。

妹のY叔母は盧溝橋10歳、真珠湾14歳。たしかにこの4年の差は感覚や意識の違いをつくるかもしれない。

 

 

アウシュビッツに行った日

この三月に卒業したばかりの子が、アウシュビッツを訪れたことを、FaceBookに書いていた。

私もずいぶん前に行ったことがある、とコメントした。

その時に書いたものを掘り起こして、ここに貼っておこうと思う。

 

     ======================

 

            「コクラ」      


 一九九〇年代の始め、夏に欧州を旅行した。
 ポーランドには、オランダから列車で入った。車窓の風景の「色調」が変わった。牛の数も変わった……ように記憶している。
 今はどうだか知らないが、当時のポーランドでは、英語が通じなかった。外国語教育がロシア語だったのだ。ホテルのフロントと空港の職員は英語ができたが、それ以外では一切通じない。日本のように手を振りながら「ノー、ノー!」と英語を用いて英語ができないことをアピールするような人さえいない。文字通り、イエスもノーもわからない。しかも町や駅のポーランド語の表示はロシア文字である。アルファベットの国ならば、まだ類推できる場合もあるが、これではこちらは読めない。
 私は英語に堪能ではないが、「多少」であっても言葉が通じるありがたみがよくわかった。ここでは完全なエイリアンだ。
 ワルシャワでは町を歩き、雑貨屋で買い物をしたが、その間、意思疎通は視線と雰囲気だけである。
 ボディーランゲージなら通じるという俗説を私は信じない。こちらが当然と思っているボディランゲージが、異なる文化ではとんでもないことになることなどざらにある。英語圏で日本式の手招きをしたら、「むこうへいけ!」になってしまう、など代表的なものだ。余計なばたばたをするよりは、「雰囲気」の方がまだよいと思っているので、それでとおした。それから、日本語で話した。口調も雰囲気の一部だし、コミュニケーションをとろうとする意思の表れと受け取られるであろう。
 治安はよかったので、それでなんとかなった。
 ワルシャワは、ナチスの爆撃によって完全に破壊された後、完全に元通りに復元された町である。ヨーロッパでは、古い様式の建物が普通の居住空間に使われているなど珍しくないが、ここではその古い様式が「取り戻された」ものだという感慨もありつつ、そぞろ歩いた。
 町で見かけて、「なんだろう?」と思ったことなどは、ホテルに帰ってから聞いたりした。
 広場に、数本の柱だけが立っている何か遺跡のようなものの前で、結婚式の衣装を着た男女が礼をしているのを見た。後で聞いたところによると、その柱はワルシャワ壊滅のときに残ったもので、その記憶のために保存されているものだという。原爆ドームのような、戦争の記憶であり、そこで亡くなった人々の記憶である。ワルシャワ市民は結婚するときに、そこへ挨拶に行くのだという。

 

 ワルシャワからクラコフに向かった。英語の通じるフロントで乗るべき列車を確認した後、駅に行く。表示が例の文字だから、手元のメモとカタチを見比べて確認し、乗った。クラコフでは、ポーランド在住の日本人と落ち合うことになっており、この、物理的には開けた閉鎖空間に風穴が空くはずだ。
 食堂車に行った。日本ではもうそれ自体お目にかからなくなっているが、映画に出てくるような古風な食堂車で、奥に小さなバーのような厨房も見える。メニューも読めないし、Tea もCoffeeも通じないので、隣のテーブルの人が飲んでいるものを指して、紅茶を得ることができた。
 お茶を飲んでいると、眼鏡をかけた半白の髪の男性が、テーブルの向かいに座った。私の顔を見て……なんと言ったか忘れた。ともかくニッポンを意味すると思われる単語を発したので、紙に日本地図を書いたら、大きくうなずいて、ポーランド語らしい、私には一言もわからない言語で何か言った。ニホンカラキタノカ? 彼の雰囲気がそう言った。「I'm from Japan. 日本から来ました。」私の発声器官が英語と日本語でそう言った。ニホンカラキマシタ。私の雰囲気がそう言った。彼はまた大きくうなずいた。雰囲気だけが通じたらしい。
 彼は私をじっと見て、おや、少し目が潤んでいる、と思ったら、こう言った。
ヒロシマ、コクラ」
「ひろしま、げんばく」
 私はうなずきながら日本語で言った。彼はポーランド語の間に、また言った。
ヒロシマ、コクラ」
 広島を外国人が知っているのはわかる。とくにポーランド人は、ワルシャワ壊滅の体験があるので、広島と長崎にはある種近い感覚を持っているということも、旅行前に聞いたことがある。日本はワルシャワ爆撃をしたドイツと同じ枢軸国だったわけだが、ポーランドと直接戦ったことがないためか、敵国意識よりも、壊滅的被害の連帯感の方が強いのだと。
ヒロシマ、コクラ」
 わからない音声の合間に、彼はまた言って、さらに目を潤ませた。なぜナガサキではなくコクラなのだ。


   ◆


 小倉は明治の初期から連隊があったり軍需工場があったり、軍とは切り離せない関係があった。乃木希典森鴎外もゆかりの地である。

 そして不肖私の父も。第二次大戦末期、学徒兵として招集され、短期間の訓練を受けて、出征するまでの間のしばらくを小倉で過ごしたと言っていた。
 にわかづくりでも軍人であるし、親元からの仕送りもあったから、小遣い程度は持っている。それで町で、何かささやかなものを食べて金を払おうとしたら、亭主が受け取らないという。金はあるんだと見せても、受け取らず、こう言ったという。
「戦争に行く人からはいただきませんよ」
 すでに軍隊で教育を受けていた学徒兵は、日米の戦力の差を具体的数値で知っていた。軍都の庶民はそういうことは知らなかったろうが、出て行った兵隊達が帰ってこないことは、実感として知っていたのだろう。

 小倉はそういう軍の町だ。また、それだからこそ、広島の次の原子爆弾投下の予定地であった。当時は目視で投下したため、悪天候などのために長崎に変更になったのだという。


   ◆


ヒロシマ、コクラ」
 彼は繰り返す。彼が何を知り、何を思い、何を訴えてこの二つの都市名を並べて発声しているのか。どうしてもそれを聞きたくなった。なぜコクラなのだ?
 食堂車には少なからぬ人もおり、職員もいる。だれか、わずかなりとも通訳してはくれまいか。私は彼らに、「Anyone can speak English?」と言ったが、何の反応も無い。雰囲気は、ワカラナイ、ハンノウシタクナイ、だった。車掌が通りかかったので、「Can you speak English?」と聞いてみたが、同じ雰囲気で逃げるように去った。
 私は英語に堪能ではないが、わかってもらえないほどひどいわけでもない。ほかのどの国でも、カタカナ英語で立派に旅してきたのだ。だが、ここではエイリアンから脱せない。
ヒロシマ、コクラ」
 彼はまたくりかえした。
 私が、先ほどの日本地図のヒロシマのあたりに印をつけると、彼はちゃんとコクラのあたりに印をつけ、何一つわからない言語で、語り続ける。
 私はあきらめ、自分の知っている小倉の話を日本語で話した。彼はポーランド語で何か言っていた。雰囲気さえ通じていなかったと思うが、互いの目を見て、それぞれが自分のコトバを語っていた。
 
 クラコフの駅で、ポーランド在住の日本人が待っていた。
 ポーランドでは小倉について何か特別に知られているのかと聞いてみたが、特に思い当たらないと言い、この日本人は、小倉が持つ軍事的な部分さえ知らず、なんでそんなマイナーな町、と笑った。

 

 ともあれ、私はこの人の案内で豪華な食事を取り、それから車でアウシュビッツへ向かった。アウシュビッツでは、多言語での表示や案内書があって、雰囲気だけでなく言語的理解を伴いながら見学することができた。
 再建された収容棟の前に、一人の老紳士が立った。同行の日本人が通訳して言うに、戦争を体験したユダヤ人たちが、交代で当時のことを伝える時間が設定されているそうだ。その老紳士は、ほかの収容所を体験した人だという。
 老人が語り始めたときは、その日本人は、内容を要約しながら私に伝えてくれていた。だが、少し話が進むと、その人はそれができなくなった。嗚咽を飲み込むのに必死で、やがてはらはらと涙こぼした。ユダヤ人の老人は語り終えて黙って佇み、聴衆も誰も動かなかった。そして歴史に興味のなさそうだった日本人が一人、声も立てずに泣いていた。
 通訳してくれなくても、それで十分だった。収容所についての「知識」なら、他でも得たし、今後も得られる。だが、あの空気はあの場でしか得られないものだ。だから私は翌日もその後も、ぼろぼろ泣いていた人に改めて話の内容を聞くことはしなかった。聞かなくても「わかった」と思う。

 

コクラは未だに謎である。

 

知られざる銀河


これは「場を創る」だった。

劇団memento moriの二つの上演。

音楽と映像と立体的に組まれた舞台。
美しいチラシとパンフレット。チケット、無料だけどモギリや車掌が迎えてくれる。
そして洗練されたカフェ。


卒業修了展は、在校生の一年間の成果を見せるイベントだが、今回はすでに卒業している面々が主体となったの出し物もあった(在校生もキャスト・スタッフで参加)。
それが、「劇団memento mori」という一つの体に二つの朗読劇を包んだ双頭の生物である。
双頭は、在学中に朗読劇の歴史を遺した二人の卒業生。


朗読劇の日程は二日間だった。在校生の『昼行生』は二日間、memento moriは、一日目に『知られざる傑作』、二日目に『銀河鉄道の夜』を一回ずつ上演した。


双頭なのでそれぞれ別物として観たのだけれども、memento moriの胴体、傾向の違うアタマが共有した部分が、「場を創る」だったと思う。


脚本そのものは、原作があるものなので「その作品を脚本家がどう読み解くか」の楽しみにかかっていた。
そして劇団memento moriは、その世界観を、空間自体を作ることで見せようとしたのだ。

最初に書いたようないろいろなものが組み込まれ、その並びや間隔が生み出す空間の密度や……背景から小物一つ一つまで、周到に準備され、配置されていた。
たとえば一戸建ての家一軒まるまるで構成されているのを見たいなあ、扉を開けると次の場面……その家で一日過ごしたいなあと思わせる。そういう疑似空間、静かなアミューズメントパークだった。


これが可能なのは、これが卒業生選抜によるものだからだ。
一人一人が自分の一芸……それぞれの表現手段、それぞれの表現欲求を持ち寄って、結集したから。結集させたことそのものが双頭の「表現力」だと私は思う。


あえて多様な要素のうちから私の「個人的好み」に響いたもの……こういうのが「琴線に触れる」というのかな、を抜き出すと、『知られざる傑作』の背景と、『銀河鉄道の夜』の音楽だった。


前者は、プロジェクターで映し出されているのだが、直線で引かれた、室内の「奥行」だ。部屋の四角い奥行と、いくつかの四角い窓(天窓)。その窓の外に、歯車のように回る……太陽。太陽は異動し、時間の経過を表しつつ、内容の展開を象徴する。
後者は、シンプルで奇妙なピアノ曲(舞台の後ろで弾く演者が少しだけ見える生演奏)。不規則に並んだ音が、星座の様でもあり、地上と天上、此岸と彼岸、彼と我、そういう「点」とそれぞれの距離を感じさせる。


両方とも、作品に必要な「空間」を、背後で絶妙に作り上げていた。
その中での、「言葉」による朗読劇が成立した。

 


卒業生選抜たちの完成度、在校生全員たちの必然。
構築された世界は、異質であった。
互いに異質であることは互いの個性であり、個性とは自然である。


いうなればそれがそのまま同じ建物に存在していた二日間が、文化学院というbaseの持つ可能性だったろう。

ありがとうごめんよかった

卒業式の数日前、専門課程文芸コース2年生の、卒業飲み会(?)に参加した。
このクラスはエネルギーがあって積極的なクラスだったと思う。卒業「パーティー」というより、掘りごたつの座敷での「飲み会」というのが納得できる雰囲気の学年だった


その席で、一人から言われた。
「先生のブログで、高等課程の子たちに向けた文章が…もう」
他の数人もそれに続き、彼らが読んでくれていて、深く受け止めてくれていたことを知った。


そして私は、ああ、あのとき、この子たちの顔を見ていた、と思った。
高等課程募集停止の発表の時だ。


あの日、2014年10月31日。
高等課程の授業は6限までで、急な集合を指示されて戸惑っていた10代たちを残して、私は上階へ向かった。
7・8限は専門課程1年の「児童文学」の授業だ。
そのときはまだ移転の話は伏せられて、高等課程募集停止の発表だけだったから高校生だけが集められ、専門課程の学生はその時点で何も知らなかったと思う。
いつものように座ってこちらを見ている学生たちを前に、私は自分が水槽の中に入っているような気がした。

さっきまで職員室の講師スペースにたまって、「なんで集められたんだろう」と言っていた高等課程の子たちと同じ場所にまだいるような気がした。それでいながら目に映っているのは専門1年生の顔で、何か空間のずれがあった。

授業の第一声のタイミングが来て、私は迷った。
それこそ、長い時間に思われたが一瞬のこと、だっただろう。
何の内容だったか忘れたが、ふつうに授業を始めていた。
今、この瞬間に高等課程に何が起きているかを話そうか……それが迷いだった。

でも結局、それは選ばず、何事もないかのように授業をした(いや、一言二言口の中で何か言った気はするが)。
彼らには、ちゃんとしたルートからしかるべく情報が行くだろう。
そして、この学年には高等課程から上がった学生がいなかったので、彼らに直接関係ないことをぶつけるのもどうかと思った。直接関係ない「感情」を。
そう、その時点では自分が何をどう話すのかが自分で予測できなかった。
だからやめた。


あのときの学生がこの子たちで、新たに巣立っていくのだと、映画のように顔がオーバーラップした。


その後発表された移転という激震は、彼らにも同じように起こったのだ。
でも、私は、高等課程のこと優先で考えてきた(もちろん授業じゃなくて、このごたごた周辺のことではね!)。
新入生が入ってこない高等課程、実技の環境が劣化した他コース。
そのなかで、「専門文芸」は「実害」が最も少なく、教室さえあれば何とかなるさ、だったかもしれない。
図書室の超劣化は痛手だが、それでも「自分で資料を探す」「国会図書館に行く」ことも、専門の学生なら当然のことではある。図書室で書き物をしていた学生もいるが、「場所を探す」のもスキルのうちだ。


そもそも私は前々から、専門生には言っていた。
「私は個人的に18歳成人制をとっているので、あなたたちは大人です」
高等課程のお子ちゃまたちとはちがう、と言ってきたし、実際、私自身の対応は自然に違っていたと思う。


まあ、そんなわけで、「学院の激動」の中でほとんど気を使ってあげずに来たのである。
実際彼らは大人なので、面倒見てほしいとも思っていなかったとは思う。


その彼らが、私の高等課程への「直接関係ない感情」を読んでいてくれたと、心のこもった視線を送ってくれて、うちの一人が「自分の心が……洗われた」と言ってくれて。
ありがとうごめんねよかった、と思った。


私は授業で――主に高等課程の生徒にだけれども――こう言っている。
「人に通じる文章」を優先しなくていい。
「自分にとって正確に」書こうとしなさい。
「自分のための言葉」を選びなさい。


自分にとって正確に書くということそのものがものすごくむずかしい。
しかし、「なるべく正確」に書こうとする中で、書き手は自分を深めていく。時に発見する。
そしてそうして選ばれた言葉は、誰かには通じる。


もっと多くに通じさせたい場合には、「読者を想定して」書くという別の話になるわけだけれども、それも、「自分のための言葉」が芯にあってこそのものだ。


単純な情報伝達は別として、表現としての言葉はそういうものだと思っている。


そして実は、このブログで私は専門課程の在校生を「読者として想定」していなかった。
高等課程を主題として、自分のためのものであり、漠然と古い卒業生たちのためであり、通りすがりに関心を持ってくれる誰かのためだった。
でも実は彼らが読んでいてくれて、そして私の言葉は彼らが不本意な変化を乗り越える時に、ちょっとだけ寄り添えたらしく思えた。
そして彼らが、直接の関わりの薄い高等課程の生徒のことを思い、文化学院高等課程という存在を考えてくれていたことを、遅まきながら知った。


想定していなかった身近で大事な人たちに届いていた、受け取ってくれていたことが、ほんとうに……
ありがとうごめんよかった
専門生も私の大切な学生です。
なので、今日はこの記事を書きました。